奈良時代、その名の通り、古代日本の中心が飛鳥から奈良に移る時代だ。その時代は、概ね8世紀の間を指し、仏教、文化、政治、社会制度が盛んに発展した一世紀にも満たない短い時期だが、その影響力は非常に大きい。

最も短い時代だが、中身は濃い
飛鳥時代に始まった中央集権体制は、この奈良時代において一層確立され、それは今日の日本の基礎となる要素の一つである。この時代に作られた律令制度は、中国の唐の制度を基に作られたもので、全国の土地や人々を統治するための仕組みだった。天皇を中心とする政治体制が形成され、それは日本の国家としての姿を一段と鮮明にした。
この時代は仏教の発展によっても特徴付けられる。飛鳥時代から引き続き、仏教は政治と密接に結びつき、国家の安定と発展を祈るための宗教として重んじられた。奈良の大仏、東大寺、興福寺など、多くの仏教建築が建立され、それらは今日まで続く日本の文化遺産となっている。

また、奈良時代には、文化が大いに発展した。それはまるで、一面の桜が満開になるかのような、華やかな文化の春だった。多くの文化財が生まれ、その中には、国宝として現在も受け継がれているものも多い。万葉集が完成し、それは日本最古の歌集として知られ、日本人の情感や生活を色濃く描き出している。
万葉集
万葉集は、日本最古の和歌集である。大部分が8世紀(奈良時代)に詠まれ、大宝2年(702年)から天平4年(732年)の間に編纂されたとされる。全20巻で、4500首以上の歌が収められている。
主に五七五七七の形式で詠まれる和歌(現在の「短歌」)が中心であるが、長歌も含まれている。内容は恋愛や季節の風景から、皇室の祭祀や軍事行動など多岐に渡る。豊かな表現と深い人間の心情を描いている。

万葉集には、多くの有名な歌人たちが登場する。例えば、大伴家持や山上憶良など。また、彼らの歌は、日本人の感情や美意識を伝えると同時に、奈良時代の社会や風俗、自然環境を映し出しており、歴史や文化の貴重な資料ともなっている。
万葉集は、和歌の基礎となる「詩心」を体現している作品として、その後の日本文学に多大な影響を与えた。また、歌の音訳に使われている「万葉仮名」は、平安時代にかな文字へと発展し、日本独自の表記体系の基礎を作ったともいえる。
それゆえ、万葉集はただの詩集でなく、日本文化の源泉とも言える作品である。今もなお、その豊かな表現力と心に響くメッセージで、多くの人々を魅了している。

奈良時代の争い
奈良時代にはいくつかの重要な争いが起きている。ここでは、それらの中でも主なものについて解説する。
- 仏教の導入とそれに伴う混乱: 仏教は奈良時代初期から徐々に国家の守護神としての位置づけを得ていったが、それに伴い、宮廷内部や国家と仏教勢力との間で対立が起きた。当時、仏教は人々にとって新たな思想であり、一部の貴族からは反感もあった。また、巨大な仏像造立など仏教施設の建設により、国家財政に負担がかかった。
- 藤原氏の台頭: 奈良時代には藤原氏が宮廷で重要な地位を確立する。特に、藤原不比等は天武天皇の時代に登場し、大宝律令の制定などに携わった。彼の子孫である四兄弟(藤原四兄弟)もまた宮廷で重要な地位を確立し、藤原氏の地位を一層固めることになる。
- 長屋王の変: 奈良時代中期の764年に起きた長屋王の変は、皇位継承を巡る争いであり、その結果、淳仁天皇が廃位され、光仁天皇が即位するという出来事である。これは、宮廷内部での権力争いが激化した結果であり、また、これにより、藤原氏の権力が一層増大する契機となった。
これらの争いは、奈良時代の政治や社会に大きな影響を与えた。また、これらの出来事は、次の平安時代における政治体制や社会構造の形成にも影響を与えている。
大宝律令 | 社会階層の形成
大宝律令は、日本の古代国家が国家組織と法制度を整えるために制定した法典である。具体的な施行年は不明だが、一般的には701年とされている。これは、中国の唐の律令制度を参考にしたもので、日本独自の社会情勢に合わせて改編された。
大宝律令は「律」と「令」の二部から構成されている。律は刑罰に関する法、令は行政に関する法を定めており、それぞれ12巻から成る。これにより、天皇を中心とする中央集権的な国家組織の形成と、その運営のための法的な基礎が確立された。
具体的には、社会階層を貴族・平民・奴婢に区分し、貴族は五位以上であれば公民として国家の役職につくことができた。また、班田収授法により6歳以上の男女に口分田が与えられ、年貢の納税が義務付けられた。
この大宝律令により、国家が土地や人民を直接統治する公地公民の体制が確立され、日本の国制が形成されていった。
しかしながら、後の時代には班田収授法の衰退や貴族の私有地(荘園)の増加により、大宝律令に基づく国家体制は次第に形骸化していった。だが、その制度設計や法体系は、その後の日本の法制度や行政組織の形成に大いに影響を与え、日本の中世社会を形成する礎となった。

社会格差
奈良時代は、天皇や貴族、寺院の力が強まり、一部のエリート層が社会を支配する構造が形成されていった。それは社会の格差を生み出し、また、それは後の時代、平安時代へとつながっていく。
奈良時代の社会は、大化の改新以降確立した律令制によって運営され、この制度は社会の階級や役職を明確に規定していた。ここでは、その中でも特に社会格差に焦点を当てて考察する。
この時代、日本社会は皇族・貴族、公民、奴婢という大きく三つの階層に分けられていた。社会の頂点には天皇が君臨し、その下に貴族たちが位階制度に基づいて位置づけられていた。貴族の中でも、特に有力な氏(うじ)出身の者たちが要職を占め、政治を主導していた。
次に公民という階級がある。公民とは、一般の農民や職人を指し、班田収授法によって国から田地を与えられ、租税を納める義務を負っていた。彼らは自己の職業に従事する一方で、国や貴族のために労役を果たすことも求められていた。
最下層には奴婢が位置していた。奴婢は公民や貴族の所有する私的な労働力であり、彼らの生活状況は一般的に厳しく、自由も限られていた。
以上のような格差は、経済的な要素だけでなく、権力や地位、身分によるものでもあった。その一方で、社会全体の安定や秩序を保つための制度とも言える。例えば、公民の労役は公共事業の実施や税収の安定に寄与していた。
しかし、律令制が進むにつれ、税負担の増大や位階による権利差、地方豪族の台頭などにより、社会格差は一層広がっていく。これは、次の平安時代へとつながる中央集権体制の崩壊と地方豪族の力の増大をもたらし、日本社会の構造を大きく変えるきっかけとなった。
✑編集後記
奈良時代の魅力は、その発展や変化だけではない。この時代は、まるで深い森の中にある清らかな泉のように、その静寂と深みを秘めている。その深みは、この時代の人々の思考や信仰、感情、そして彼らが築いた文化や社会を表している。
奈良時代、それは過去の世界の中で、非常に特異な位置を占める時代だ。その世界を理解し、その深みを探ることで、我々は新たな知識と理解を得ることができる。
だが、それは同時に、一つの挑戦でもある。その世界を理解し、その深みを探るためには、多くの知識と理解が必要だ。それはまるで、深い森を探検するかのようなもので、その先には見知らぬ世界が広がっている。しかし、その森を進んでいくことで、我々は新たな知識と理解を得ることができるだろう。
奈良時代、それはまるで鏡のように、過去の世界を反映し、それを我々に見せてくれる。その世界を理解し、その深みを探ることで、我々は新たな視点を得ることができる。そして、その新たな視点から見た世界は、きっと我々に新たな発見と理解を与えてくれるだろう。